その93 声を出して読んでみよう! 黙読だけでは発見できなかった何かを感じることができるでしょう!

昨晩は、溝の口の高津市民館で開催された柳家小三治独演会へ行ってきました。

演目は、「野ざらし」と「朗読(忘れえぬ人々)」。


仕事の関係で開演時間に間に合わず、「まくら」を聴けなかったのは残念でしたが、「野ざらし」の本編はほぼ聴くことができました。

小三治師の「野ざらし」は初めて聴きましたが、川での「コツ」釣りの場面での、話術、所作、表情が織り成す雰囲気が実に軽快で、よい意味で師の若々しさを感じました。

昨年出演された「プロフェッショナル 仕事の流儀」では随分と枯れた印象を持ちましたが、丁寧さと軽快なリズム感の調和が健在で、生意気な言い方ですが安心をしました。


そして「朗読」というものを、初めてライブで聴きました。

パンフレットに「朗読」と書いてあったものの、「人情噺でもやるのかな?」くらいに軽く考えており、まさか本当に朗読をするとは思ってもいませんでした。

朗読、つまり、文章を読み上げることです。

当然ですが、落語とは異なり、登場人物によって、左右に顔を向けたり、扇子や手ぬぐいといった小道具を使うこともありません。

溝の口での開催というオファーを受けた際に、小三治師自ら「朗読」をやらせて欲しいと、主催者にお願いをしたそうです。

と、いうのは、師が高校生のころ国語の時間に朗読をさせられた思い出の作品「忘れえぬ人々」(国木田独歩)が、溝の口を舞台にしていたためだそうです。

パパは大学生の時に新潮文庫の「武蔵野」を買って読んだことがあるので、そこに収録されていた「忘れえぬ人々」も読んでいたはずですが、全く記憶に残っていませんでした。

なので、朗読を初めて体験するとともに、「忘れえぬ人々」という作品にもはじめて触れることができ、とても有意義でした。

小三治師は落語の世界でも、「すっーーと」自らの存在を消し、江戸の世界を観客の前に浮かび現せる、稀代の名人ですが、これは朗読でも同じであると感じました。

師が語り始めると、多摩川の船着場からの街道沿い何軒か店がある程度の田舎町溝口の、亀屋という宿場が目の前に現れ、その宿のたたきにある長火鉢で繰り広げられたオオツとアキヤマのやりとりが映像として浮かび上がってきました。

会場には、生粋の溝の口っ子も多数来場しており、昔は確かに存在した亀屋という宿の存在を知るそれらの人々が、師の発する言葉をさらにリアルの増幅させる役割を担っているようでした。

物理的には説明し得ない、何かが会場を臨場感のある空気としていたのです。

語り手が場を支配するに留まらず、会場に居る観客が語り手に呼応している感覚を肌で感じることができました。

小三治師が落語になったのは、「落語を通じて人が生きる喜びを感じて欲しいから」と仰っていました。

笑いは「おまけ」でしかないそうです。

で、あれば、本日の朗読も、師のサービスにより時折笑いが散りばめられてはいましたが、本質的には、国木田独歩の抒景詩的な文章を観客に伝えてるに徹しているので、そこに笑いは存在しません。

それでも、観客が魅了されるのは、師の目指している「人の生きる喜び」を伝えることが実践されていたからであると思います。

師の話術と朗読という新しい世界によい知らされた夜でした。


本日のパパからのメッセージは、

「声を出して読んでみよう! 黙読だけでは発見できなかった何かを感じることができるでしょう!」

です。


そういえば、茂木健一郎さんの推奨する「鶴の恩返し勉強法」が、まさに声をだしながら勉強するというものでした。

人間にはせっかく五感があるので、休ませるのはもったいないです。

うまく使いこなして、より多くのことを効率的に学び、そしてより多くのものを感じてください。