その115 昔の記憶を辿って、文書を書いてみよう!
トランジットのためバングラディシュのダッカで1泊した後、インドのカルカッタに入り、列車でヴァラナシに移動した後、ネパールのカトマンズに行ったとうのが、パパの初めての海外旅行でした。
パパが大学4年生の夏休みのことでした。
今月、「裸でも生きる」(山口絵里子著)と「マイクロソフトで出会えなかった天職」(ジョン・ウッド著)を読みました。
手元には、「インドの時代」(中島岳志著)があります。
少し順番は違いますが、偶然にも、今月書籍でバングラディシュ、ネパール、インドを巡ることになります。
あの安ホテルでそうしたのと同じように、ベットに半分寝転びながら、これらの本を読んでいると、当時の強烈な印象が、頭の中をフラッシュバックしていきます。
深夜に到着したダッカの空港から、少し離れたホテルへ向かうバスから見た、薄暗いオレンジ色の街灯に照らされた光景。
「なぜ、深夜なのに、こんなに人が路上にあふれているのだろう?」
夜は家に帰って寝るものだという日本での当たり前の生活しか知らない私にとっては、空港からホテルまでの道に途切れることなく溢れている路上生活者の姿を見ても、なぜこのような光景が目の前にあるのか、全く理解できませんでした。
そして、興奮で寝付かれないままベットの中で、なんとか眠ろうと努力をしているところに響く、音が割れんばかりのスピーカー越しのコーランの祈り。
忘れもしない海外1日目の体験でした。
そして、カルカッタへ。
「貧しさ対して目を背けてはいけない」とか、「困っている人がいたらできる範囲で助けてあげよう」といった、これまでの道徳観がなぎ倒されました。
どこへ行っても、いつの間にか次から次へやってくる、物乞いたち。
困惑した状態が恒常的に起こると、人間はもう笑うしかないのだということをはじめて体験しました。
物乞いたちの相手をまともにしていたら、この街では一歩たりとも前へ進めないのです。
長い間培ってきた道徳観なんて、周りの状況ひとつで、いとも簡単にい否定できるものなのです。
ホットな心を閉じ込め、クールに、そしてドライに振舞うという、意識のすり替えをすることによって、なんとかカルカッタでの日程を過ごすことができました。
カルカッタでは、同行した友人が発熱をしたこともあり、何も楽しめなかった感があります。
インドのパワーの前になすすべもなく、ヴァラナシへ発つまでの時間を過ごしただけでした。
この旅に対して、はじめて余裕が持てたのは、ヴァラナシへ向かう列車の中でした。
4人部屋のコンパートメントを予約していたのですが、3人分の座席しかとっていないので、誰か1人は入ってくるであろうことは予測していたのですが、カルカッタの次の駅で、パパたち3人のほかに、6人くらいコンパートメントに乗りこんできました。
椅子には詰めて3人しか座れないので、椅子に座れない人は、さも当たり前のように頭上の荷物置場に寝転んでいます。
「チケットを見せろ」などと言っても意味が無いことを悟り、抵抗しないで流れにみを任せることにしました。
そんな状況の中ではじめてこの旅が楽しいと思えたのは、これらの勝手にコンパートメントに乗り込んできたと思しきインドの人々との交流でした。
停車するたびに、さらに我々のコンパートメントに乗り込んでこようとする人たちを大声で追い返してくれたり、飯時になるとチャイや弁当を注文してくれたりと、言葉より先に行動で心が通いました。
インド人は基本的には英語が話せるので、苦手な英語を屈指して話しをしてみると、ヴァラナシという聖地に対してパパたちの想像を超える思い入れを持っており、それは恐らく日本では当てはめられる例が存在しないような、とてつもなくパワーのある思いでした。
インド人と会話をすると、必ずといっていいほど「お前の信仰している宗教は何だ?」と聞かれました。
信仰心など持ち合わせていないものの、死んだら寺で葬式をあげることは想像できるので、「ブッディストだ。」と答えます。
そういうと、仰ぐ宗教は違っても、信仰心のある人間には一目置くというのが彼らの流儀らしく、この会話を交わした後は、親しみ度があがっていたように記憶しています。
途中、田んぼ中に飛び交う蛍の光に、日本人である我々だけが感激したり、列車のトイレのすさまじい光景を目のあたりにして、人間念じれば用を足さないように体をコントロールすることができるのだということを体験したりしながら、目的地であるヴァラナシへ着きました。
長くなりそうなので、続きは、またの機会に書きたいと思います。
で、本日のパパからのメッセージは、
「昔の記憶を辿って、文書を書いてみよう!」
です。
思いつきで、学生時代の旅行のことを書き始めましたが、筆を進めるごとに、その当時の記憶が、映像として現れてきました。
きっと、脳のどこかに仕舞い込まれていた記憶が、解放されたのでしょう。
インパクトのある出来事だったということもありますが、こんなにも鮮明に覚えているものかと我ながら感心します。
昔の記憶を引っ張り出して、何の役に立つのかは不明ですが、不思議な体験であり、悪い気持ちはしなかったです。
幸ちゃんが、大きくなったときに、パパと一緒に暮らしていたときのことを一生懸命思い出してくれたら、パパにとって、それ以上の喜びはないというくらいに嬉しいです。
桃ちゃんは、産まれてすぐに離れ離れになってしまったから、無理ですよね・・