その129 総論賛成でも、各論については安易に賛成するな!

全体美に惑わされてしまい、細部の判断を見誤るとが多々あるようです。

例えば、今日テレビを見ていて思ったのですが、野球における微妙な判定は、全体的に所作が美しい側に有利になっているようです。

盗塁などは、ベースへの到達とタッチが同時の場合には、捕手から野手への送球がビシッと決まったときはアウト、乱れたときはセーフ

バッターがバットを振りにいき途中で止めた場合には、捕手がバッシと捕球し流れるように累進にアピールしたときはスウィング(ストライク)、捕球できずないなどで流れでアピールできないときは見送り(ボール)と判断されることが多いように思えます。

本来、野球の審判は、全体の動きに惑わされることなく、点を見つめてアウト/セーフ、ストライク/ボールを判断すべきですが、全体の動きの中でどうしても流されてしまうことあるようで、これは致し方のないことだと思います。


これは、野球に限らず、ビジネスや普段の生活の中でも当てはまります。

部分的には不合理な主張であっても、全体的な主張が合理的で、筋が通っているように思われれば、不合理な部分が修正されることなく、全体が採用されることが多いです。

これも野球の審判と同じで、総論に流されることなく、各論について個別に判断をしていくべきです。


なかには、芸能や芸術のように、全体のバランスが醸し出す雰囲気が評価の最重要事項になる分野もあります。
(根拠はないのですが、右脳系分野は全体的なバランス重視、左脳系分野は個別重視のように思います。)

例えば、先日、国立美術館で見た、興福寺の阿修羅像は、3つの顔と6本の手とのバランスこそが素晴らしいのであって、もし、3体に別れていたら果たして国宝なのかなとも思います。

また、立川談志家元の落語などは、声がガラガラで台詞など聞き取りづらいこともあるのですが、枕からとおして聴いているといつの間にか江戸の世界への引き込まれるような、なんとも得も言えない名作落語となります。


でも、世の中の大抵の物事は、やはり全体美に惑わされてしまっているような気がします。

これはなぜか?

パパは人が手間を惜しんで、手順を省略してしまっているからではないかと考えています。

つまり、全体的に納得できれば大抵のことはほぼ問題なく運ぶ(最良の形かどうかは不明ですが・・)ので、その後の思考を放棄するように習慣化されてしまっているように思えます。

見方を変えると、個々のパーツが違っていても、全体の造りさえ間違っていなければ、大きな失敗はせず、それが許されるぬくぬくとした社会になっているような気がします。

まあ、平和でよい社会であるという見方もあるでしょうが、そのような偽りの成功経験を積み重ねていくうちに、個別課題を微修正するのが面倒になり、いつしか考えることをやめてしまうのです。


ここはがんばって、もう一手間かけましょう。

まず、全体的な方向性が正しいのかを見極めましょう。

そして、あとは個別の内容が全体の方向性にマッチしているか、他により良い方法がないかをきちんと考えましょう。

自分の中で納得できる答えが見つかるまで、きっちりと手を抜かずに考えてみましょう。

結果、全体感で納得をしたときと変わっていないかもしれませが、脳が汗をかいた分だけ、きっと何かが身についているはずです。


本日のパパからのメッセージは、

「総論賛成でも、各論については安易に賛成するな!」

です。


全体的な質感を感じる力は素晴らしく、すぐに細部に目が言ってしまうパパなどには、まだまだ備わっていないものです。

パパはどちらかというと、各論だけに囚われてしまい、物事を俯瞰できません。

当然ですが、これもまたよろしくありません。

どうか、全体を見る力と、個別の課題を見抜く力の双方を兼ね備えられるよう、思考のクセをつけてください。