その159 小さいときに好きだったものを大切にして、大人になったらもう一度体験してみよう!
久しぶりに先代の金原亭馬生の落語を聴きました。(小学館「昭和落語の名人11号」の特集が馬生師でした。)
「笠碁」「天狗裁き」「そば清」
どれも、中学生時代のパパが、カセットテープでよく聴いた噺です。
中学生のとき、どういうわけか馬生の落語が好きでした。
ラジオから流れる志ん生で落語にはまり、文楽、円生、三木助、彦六、小さん・・
昭和の大看板の中でも、比較的地味な馬生の噺が好きでした。
志ん朝のスピード感溢れるリズムとは異なり、また、志ん生の理屈抜きの面白さとも異なり、自然体で軽い感じの江戸前落語が馬生師の特徴だったと思います。
枕とか、噺の背景の説明などは、正直あまり印象に残っていませんが、とにかく馬生師の演ずる人物は、どこか人がよくて憎めずに、魅力的でした。
後に、いろいろ知ったのですが、天才の父と弟を持つ、馬生師は、相当苦労をされたようです。
しかし、そんな苦労を微塵も感じさせない、明るく堅実な高座(パパは音源でしか聴いたことはありませんが・・)は、誰からも愛されたようです。
パパが学生のときは、落語などというのは、基本的には年寄りが聞くものだという雰囲気が漂っており、あまり、表立って「趣味は落語鑑賞です」などと言えませんでした。
そんな中で、たまに落語好きの同世代と話をすると、志ん朝、談志、小三治、小朝が人気で、昔の噺家ともなると、志ん生、文楽、円生、小さん(パパの学生時代はご存命でした)くらいしか出てこず、そのような中で金原亭馬生と桂三木助が好きですなどとは、言えた物ではありませんでした。」
一度大学の落研の高座を見に行ったときなど、出囃子のリクエストに応えますなどというものだから、「馬生」をリクエストしたところ、全然違う出囃子を演奏されたことがあります。
大学の落語研究会などでも、この程度ですから、パパが公然と「馬生ファン」などと言っても、マニアな人と思われるのが落ちだったでしょう。
落語界では超有名人でも、バブルに向かって浮かれていたあの時代に、落語鑑賞を趣味とする中学生・高校生は皆無だったと思います。
そういえば、立川志らく師匠も、馬生師のファンで、本気で弟子入りを考えていたそうですが、まさに入門のお願いに行こうと準備していたその時に、馬生が急死されたそうです。
志らく師匠も大好きな噺家の一人なので、そんな方と、同じ人(馬生師)のファンであったということは、なんだかとても嬉しいことでした。
でも、最近は落語ブームでもあり、というか大人になったこともあり、堂々と馬生ファンを名乗れます。
「どうだ。馬生好き」などというと、少しマニアックな感じがしますが、本当だから仕方がありません。
二十年以上も前、初めて笠碁を聴いた時のように、囲碁を覚えたくなりましたし、腹いっぱいそばを食べたくなりました。
昨日のデジャブに続いて、また、少し過去の体験が表面化しました。
過去の思い出にいつまでも慕って前へ進まないというなら問題はありますが、時間軸による質感を体感できるのは、ひょっとすると人間の特徴のひとつなのかもしれません。
歌もそうですが、二十年以上前に聴いたもので再び感動できるというのは、素晴らしいことだと思います。
君たちも、小さいときに好きだったことを、大人になってから体験してみてください。
音や映像だけではなく、字や絵もよいかもしれません。
昔の記憶と戯れると、疲れた日常が体を離れていき、とてもリラックスができます。
本日のパパからのメッセージは、
「小さいときに好きだったものを大切にして、大人になったらもう一度体験してみよう!」
です。
君たちは、一体どんなことに興味を持つのでしょうか?
いろいろな素晴らしいものに、どんどん触れて、その中から、自分の好きなものを是非みつけてください!