その180 誰の曲かなどは気にせず、素直に音楽を楽しもう!

ブラームス交響曲第1番ハ短調を「意識して」聴きました。

これまでも、何度も耳に入ってきたことのあるメロディーでしたが、都度、文字情報としての跡を残さずに、パパの体を通り抜けていってしまったので、メロディという、曖昧なものだけが脳の奥底に認識されていました。

ブラームスの曲ということを知らなくても、この曲に出会う都度、「ああ、いい曲だなー」という気分にはなれたと思いますが、やはり、文字情報と結びつけて記憶にインプットしたおかげで、再現性が高まりました。

ただ、すべての音楽について、このように文字情報と結びつけて記憶をすることは不可能ですし、メロディーだけがわかるような記憶も、悪くないと思います。


文字情報を記憶してしまうと、なんだか、理論的に音楽を捉えてしまうような気がして、音楽を聴いたときの純粋な感動が薄れてしまうような気がします。

もちろん、いろいろな情報を知ったうえでも、演奏の質や会場の雰囲気、その時の自分の置かれたシチュエーションによって、とてもいいなーと感じることもありますが、ふいに、そのメロディを聴いたときとは異質な感覚です。

一期一会が、音楽の魅力的な一面なのかもしれません。

次にいつ出会えるかわからないという刹那的な思いが、ふと耳に入ってきたメロディーラインをより印象的なものとして捉え、その無形のものを心の奥底に仕舞い込むのでしょう。

これは、きっと人類が長年営んできた習性でしょう。


音楽の歴史について詳しくはありませんが、昔から日常の中での愉しみの一つとして、自然発生的に生まれたのでしょう。

当然、録音機器もなく、音符もない時代です。

不意に聴こえてきた美しいメロディーに古代の人たちは、どんな喜びを見出したのでしょうか?

食べるために必死に生きていた時代に突如現れた不思議な感覚に、どんな思いを馳せたのでしょうか?

辛い労働を一瞬忘れさせてくれる麻薬か。それとも神との会話か。

自然発生的に生まれ、拡がりを見せた音楽に、どれだけの人が救われてきたのでしょう。


そして、いつの日か、音符ができ、音楽は体系化していきます。

作曲家は、システマチックに音とメロディを組み合わせ、指揮者は、演奏を統率していきます。

そして聞き手も、いつでも自分が主体的に選択した音楽を聴くことができる環境にあります。


しかし、そうでない音楽もまた存在するのです。

古代の人々が感じた、あの不思議な感覚を、街中でふと聞こえてくるあのメロディーに見出すことができるのです。


音楽に限らない話ですが、現代は、何でも知りたがる社会、全てを手に入れようとする社会を是としているような気がします。

知らないこと、手に入らないものがあってもいいんじゃないでしょうか。

もっと偶然の喜びを感じましょう。


本日のパパからのメッセージは、

「誰の曲かなどは気にせず、素直に音楽を楽しもう!」

です。


冒頭のブラームスの曲は、たまたま購入した茂木健一郎さんの「カラヤン〜音楽が脳を育てる」という本のオマケとして入っていたCDに収録されていました。

まだ、本は読んでいませんが、きっと、クラッシク音楽を聞くと、脳が活性化するというようなことが書いてあるのではないかと思います。

それほど聞き込んでいたわけではありませんが、子どもの頃のパパの家には、有名どころのクラッシクのレコードがあり、小学生高学年から中学生に至るくらいまで、たまに聞いていました。

「ウィリアムテル序曲」「軽騎兵序曲」「ラデッキー行進曲」などの、気分が昂揚するようなものを好んでかけていました。

あと「四季」もよく聞きました。

その他、題名とメロディが一致しない曲多数。

知識ではありませんが、感覚としてパパの体に」染み込んでいます。

君たちももしよかったら、小さいうちから、クラッシック音楽を聴いてみましょう。

いつの日か、誰のどの曲が好きか、パパと話しができる機会があればよいですね。