その218 才能・能力の差を感じたらそれは幸運なことです。なぜなら自分自身努力をはじめる切欠となるから!
才能の違い、能力の違いを感じました。
まず、講演会。
「甦るドストエフスキー」亀山郁夫×佐藤優という講演会へ行ってきました。
以前、佐藤さんの講演会に行って、とても面白かったので、ドストエフスキーなど読んだこともないのに思い切って参加してみましたが、ちょっと辛かったです。
「罪と罰」の解釈、背景を巡る対談で、思想、宗教、民族など、ロシアの歴史に触れながら、物語の場面を切っていくという展開でした。
小説とはこんなに深く、広いものなのかというくらい、次々と話が展開していきます。
交渉術のプロであり、ロシア事情に詳しい佐藤氏を前にすると、さすがの亀山氏も苦しくなるのか、何度か、「話題を替えていいですか」などといって、展開を打ち切っていました。
亀山さん曰く、「質疑応答なら簡単だけれども、対話は難しい」ということでした。
質疑応答が直線的に相手の懐に飛び込んでいくのに対して、対話は直線、曲線、あるいは別方向へと相手を誘いながらお互いが一定の距離を保ちながら進んでいくようなものだと解釈しました。
確かに講演会を聞いていると、時に会話が噛み合わず、じれったくも思いますが、そこは相手との距離を測りながら、譲る/譲らないの葛藤をしているのでしょう。
一作日、昨日に続いて、ここでもまた、距離の技術について考えさせられました。
で、講演会ですが、「罪と罰」の主人公であるラスコーニフの犯した罪は、社会悪であって、個人の責任がないのではないかという小説全体のテーマをモチーフとして、他の登場人物やエピソードに当てはめていました。
冒頭、「1Q84」と「罪と罰」をかけて話題を提供するなど、サービスも忘れてはいませんでしたが。本質的には難しくてよくわかりませんでした。
ただ、全ての犯罪は社会にも責任があるのではないかという問いには、マスコミ等で報道される現代日本の犯罪に照らして、少しドキッとしてしまいました。
何が人を犯罪に走らせるのか?
友人に、恋人に、家族に、会社に、そして社会に責任がないと言えるのでしょうか?
佐藤さんが最後に仰っていましたが、「罪と罰」がブームになるような社会というのは、社会が正常な状態でないとのことです。
個人に置き換えて、このようなことを考えてしまうのは、パパも正常ではないような気がしてしまいます。
もうひとつ。
編集学校の稽古に対して、入選作品が発表されました。
パパも7作品のうち1作品入選して、前回の0に比べればよかったのですが、入選したのはそれほど自信のあった作品ではなく、感性の違いに愕然としました。
知人に7作品中1作品入選したといって、作品を見せたら、見事に入選作品を当てたことにも、おかしな話ですが嫉妬のようなものを感じてしまいました。
そして、何より、他の入選作品の発想の見事さ。
言葉の引き出しの多さの問題ではなく、前提となるシチュエーションの設定が違う感じです。
これは、ただ単に自分の稽古に没頭して、他の人の作品を見てこなかった自分の稽古の取り組み方が誤っていたと反省するしかありません。
今にして思えば、実にもったいないことをしました。
幸い、稽古の軌跡は残るようなので、どこかでじっくりと復習をしたいと思います。
まあ、圧倒的な才能。能力の違いを感じたことを、幸運なことだと思い、その差を埋めるべく地道に努力をしましょう。
焦っても何にもならないので、事実を受け止め、一歩一歩、自分自身を高めて行きたいと思います。
本日のパパからのメッセージは、
「才能・能力の差を感じたらそれは幸運なことです。なぜなら自分自身努力をはじめる切欠となるから!」
です。
自信に満ちた人生より、挫折を繰り返し、自信を取り戻すために弛まぬ努力をしていく人生のほうが美しいと思います。
客観的に自分を見つめ、負けを認めて謙虚に生きて行こう!
ただし、努力することを忘れることなく。