その230 音をコントロールして集中力を高めよう!

人は音というものに対して、とても敏感な部分がある反面、ずいぶんと鈍感な部分もあるように思えます。

無音の中では1匹の蚊の羽ばたきに睡眠を阻害されることがある反面、各種雑多な音が入り混じりあう雑踏の中でも眠ることができます。

引っ越しをしてきた初日には、気になっていた夜遅くまで商店街を行きかう酔客のよろめく足音や奇声にも似た甲高い笑い声なども、全く気にならなくなりました。

寝る前に精神を集中して「無」の世界に入り込むなどという高尚なものではなく、自然と気にならなくなるものです。

音というものが耳から入ってきて、脳がどのように整理をしているのかわかりませんが、「安心の音」と「不安の音」にきっちりと色分けをしているのではないかと思います。

すなわち、電車や車の通る音など、普段から恒常的に聞こえる音は、危害を加えられることがないということが経験則でわかるために、何か行動を起こすという判断を迫られることなく、顕在意識の領域まであがってこないのでしょう。

一方、物が落ちる音や、何かがぶつかった時に発生する音は、その音が起こった原因を想起させるために、顕在意識の領域での判断が必要となり、結果、音の印象が残るのだと思います。


ようは、家で聞こえる生活音について、詳細な原因の特定まではできないまでも、少なくとも自分に危害を加えることがないということを、たった何日間の間で判断してしまったわけです。

順応性があるというか、都合がよいというか、人間はつくづく便利にできているものです。


ただ、変な言い方かもしれませんが、少し勿体ないような気がします。

引っ越し初日の緊張感は、眠りは浅いかもしれませんが、五感のアンテナが全てが逆立っているようで、パパの周囲にある物質を粒子レベルまですべてキャッチしているような感覚でした。

夏の湿った空気が、どこかピリッとしたように感じられ、体は疲れているけれども頭は冴えているような状態は、無限のスポンジのように、あらゆるモノを吸収していけるような気がしていました。

どこかで体験したような感覚。そう、この特別な感覚は、昔旅先で味わった感覚です。

ダッカのオレンジ色の街灯に照らされた先にあった宿、カルカッタの雑踏の延長線上に存在したホテル、まさに異国の匂いのした上海のドミトリー、昆明から大理へと向かう誇りっぽいバスで味わった、あの感覚です。

旅先で感じるほどよい緊張感というのは、感覚を研ぎ澄まし、普段とは違う思考を生み出します。

恥ずかしいですが、昔旅先で書いた文章などを見ると、普段は照れくさくて書けないようなことがわんさかと書いてあったりします。

しかし、その照れくさい文章の中に、なるほどと思えるようなことが書いてあったりして、普段自分の中に眠る才能とはいえないまでも、考え方に感心させられたりします。


このような感覚の出し入れが自由にできればと思います。

編集学校の稽古の中で扱った文書の中に、「精神を落ち着かせるために、剣道場に入る際に鐘を打ち鳴らしその残響が消えたと思ったら、道場へ入ることをしていたのが、やがて実際の鐘を打ち鳴らさずともに、鐘の音が聞こえ暫くすると聞こえなくなる」というような話がありました。

つまり、実際には存在しない鐘の音をあたかも音が鳴っているようにバーチャルで感じ、自らの精神をコントロールするというものです。

パパもこの境地に達したいと思います。


今日、とても残念なことがあり、心が乱れました。

どうもパパの気持ちが伝わらないというか、聞く気がないというか・・

ただ、この精神的ショックは、なるべく引きずらないようにしなければなりません。

聞こえないはずの鐘の音を感じその残響に集中し、音が途切れたときには、目の前にない物質や事実に囚われないに、逆に目の前にある粒子を全てキャッチできるように五感を逆立て、ほどよい緊張感のもと集中力を高めていきたいと思います。


本日のパパからのメッセージは、

「音をコントロールして集中力を高めよう!」

です。


さて、音の分類法はいくつもあると思いますが、穏やかなものと、穏やかでないものという分類もあると思います。

面白いもので、人の声は、その人が穏やかであるか、そうでないかを正直に反映します。

心を落ち着いていると声も穏やかであり、それが聞き手にも伝わり安心感を与えます。

確かに同じ人の声なのですが、似て非なるものになることがあります。

「穏やかな声ですね」と言われるような人になりたいですね。