その237 器に支配されるな!

安く、美味しいものを手に入れると、単純に幸せな気分になれます。

地方に行くと野菜が安いということを実感します。(というか、首都圏は高すぎです。)

道の駅や、物産センターなどに立ち寄ると、形は悪いけれども新鮮な野菜が安く手に入ります。

これまでは、その存在に気づいていたものの、自らが使うという要件がなかったために、横目でチラッと見て通り過ぎるくらいでしたが、いざ自分で使う要件がでてくると、なんとも魅力的なものに移ります。

今年は、雨が多かったせいか、野菜の値段が高く、パパのよく行くスーパーでは、きゅうり1本60円もしているのに、地方だと6〜7本で100円だったりします。

その他にも、なす、きゅうり、ピーマン、ししとう、みょうがなど、夏野菜がいずれも半額以下で手に入ります。


きっと、形が悪かったりして、農協等の正規の販売ルートに乗せることができないようなものが中心なのでしょうが、味に差はないので、全く問題ないです。

確かに、スーパーなどで見る野菜は、形が揃っていて見栄えはしますが、何か工業品のような均一感があり、かえって不自然にも思えます。

この律儀なまでの均一亜崇拝主義は、いったいどこからくるのでしょうか?

それは、流通の過程の「箱」にあるように思えます。

やわらかなトマトであっても、長い長ネギであっても、その形に合わせて、決して押し潰さないように、箱が野菜たちを守ります。

自ずと、その箱に隙間なく、効率よく入るように、規格が決まってきて、その規格に当てはまらない野菜は、味は何ら変わらないのに、半端ものとして、価値を下げてしまっているのです。

おかしな話です。

野菜の本質は、美味しいか、美味しくないかです。

それが、味と同等かそれ以上に、「箱」に入る規格が重視されているのです。

これでは農家も、品質に気を配るべきところ、規格に気を取られてしまいます。


八百屋のレイアウトを見れば面影がありますが、野菜は、もともと籠につまれていたり、ござに並べられていたりしたはずです。

その流通過程では、確かにダンボールのような箱に詰められたりもしたのでしょうが、今と比べるとずいぶん緩やかに詰められていたような気がします。

利便性を求めて、本質をおざなりにした結果、本当に正解だったのでしょうか?

実際に料理をしてみると、やはり地方で買った不揃いの野菜たちのほうが圧倒的に美味しいです。

まさに産地直送、朝どり新鮮です。謳い文句に偽りはありません。

そうです。これは野菜とダンボールだけの関係ではなく、我々の生活に蔓延していて、なかなか見極められないものととても似ています。

決して外見に気を取られることなく、内面(本質)を磨きましょう。


本日のパパからのメッセージは、

「器に支配されるな!」

です。


これからも油断をすると、用意された器の中で泳ぐことだけで満足してしまいます。

そうではなく、本質がどうなっているかを見極め、そこに注力をしていくべきです。

自然界に直線はありません。曲線の集合でまっすぐにも見えるのです。

なので、形が整いすぎているものには注意し、その形の内側に隠れているものがなんであるかに思考を集中させましょう。