その323 他人に迷惑をかけないということを常に念頭に置いて、分別ある行動をとろう!

いつの頃からだろう。世の中、個人の快楽を優先させるあまり、道徳的な規範が失われているように思える。

超えてはいけない一線ってあるはずなのに、平気で踏み越えていく人が多いようだ。

何も知らないのならまだしも、知っていながらも、乗っかってしまう神経は理解できない。

二者択一でどちらが良いのかと質問されれば、迷うことなく答えられるはずなのに、なぜ不正解の答えを選んで行動をしてしまうのだろう。

少しくらいであれば、すぐに戻ってこれるという自信からくる気の緩みなのか、安直な考えに思えて仕方がない。

特に人との関わりについては、なかなか脱せないので要注意だ。

情にほだされたとき、ドライにシャットアウトできる強さを持ち合わせた人は少ない。

外から見ると、口八丁手八丁であることが看破できても、いざ自分が当事者になると、どうしても性善説にたちたくなるらしく、論理的に思考することを停止させてしまうものだ。

世の中、善人ばかりいるのではないのだ。

いや、100%の悪人などは稀で、どんな人間でも、善人と悪人の要素を併せ持っているので、ある意味では、世の中は善人ばかりなのだ。

なので性質が悪い。

相手も善人のような振る舞いで接してくるわけで、そのような振る舞いに対しては、悪い気がせず、ついつい心を許してしまう。

心を許すと「情のようなもの」がわき、それを否定することは自分を否定することになるため、ついつい流されていく。

普段はクールに常識的な行動をとっているように見えても、「情のようなもの」は、直線的に人の心をわしづかみにして、全ての行動の規範の指針に据えられる。

人生長いので、若いうちに痛い目に遭って勉強をするという手もある。

しかし、大人になっても、「情のようなもの」が、本物であるかどうかの見極めが難しく、経験が即役立つかというと、残念ながらそうでもない。

したがって、自分の中で、物事の善悪を判断できる確固たる道徳的規範を持ち、それに基づいた行動をとるしかない。


最近のニュースなどを見ていると、この道徳的規範の緩みから犯罪や事件に巻き込まれるケースが目につく。

「心の隙」という弁明は、言葉としてきれいではあるが、全く具体的ではないので、信用できない。

「心の隙」は、ある時点で個人の快楽を選択したことによって生まれた副産物であって、その個人の快楽を選択した自分自身の行動を論理的に否定しない限り、一度の失敗では済まず、また同じような行動をとってしまう可能性が高いように思える。

論理的に判断をするためには、なぜ「情のようなもの」を受け入れてしまったのかを検証するとよい。


寂しさなのか、はたまた見栄(エゴ)なのか、根っこにある理由を大別すると、そのどちらかではないだろうか?

どちらも、ある意味では双方ともに人としては避けて通れない強烈な感情であり、これが揺らぐと、立っているのがしんどくなる。

しかし、そうは言っても、道徳的な判断が必要だ。

その行動によって、誰が最も苦しい思いをするのか?

自分が苦しい思いをする分には自己責任なので仕方がない。

相手も当事者なので知ったことではない。

しかし、自分、相手以外の第三者が苦しい思い、辛い思いをするのであれば、それは避けるべきだ。

どうしても、直接顔を見たことがないと、都合よく存在しないように考えてしまうが、大きな誤りだ。

自分は善人のつもりでも、見る人から見れば悪人以外の何者でもない。

他人に嫌われるくらいなだまだしも、他人に恨まれるような人生はあまりにも辛い。

「他人に迷惑をかけないように育ってほしい」と、どんな親でも願っている。

これは偽りにない事実であろう。

そして、やっかいなことに、大方の人はこれを実践できていると思っている。

しかし、「情のようなもの」が優先されると、この道徳の基礎は、都合よく忘れてしまうことができるらしい。

それではいけない。

人には、個人の感情より優先させなければならないものがあるのだ。


本日のパパからのメッセージは、

「他人に迷惑をかけないということを常に念頭に置いて、分別ある行動をとろう!」

です。


そして、パパの「今日のよかった!」は、

「人の嫌な一面を見てしまった!」

です。

Why?

→ 反面教師として、自らの行動指針が明になったから。