その335 親の思うように動かなくてもよい!ただし、親の思いがどこにあったかはくみ取ってみよう!

サングラスなどというものは、ただのファッションだと思っていた節があったが、ランニングや自転車を始めてみると、日常においても必要不可欠のアイテムではないかと思ってきた。

これまでも自動車の運転などでは、フロントガラスから日が差し込んできたときの眩しさをよけることを目的として、また、釣りのときに魚影をはっきりと捉えるために偏光グラスを用いたりと、限られた用途ではお世話になってきた。

しかし、それは特定の用途、つまり、車のコンソールボックスに入れっぱなしであったり、釣りのルアーケースの中に入れっぱなしであったりと、どちらかというと日常とはかけ離れたところにあった。

ところが、頻繁にサングラスをつけはじめると、外面的な部分はさておき、実務的に優れていることに気がつく。


紫外線カット。

これは目に見えるものではないかもしれないが、オゾン層が破れているという事実がある以上、有害な粒子が地上に降り注いでいるのは確実である。

そうしたときに、瞳という人間の体の中でも、最もナイーブな部分を守らなければならない。

ダメージが見えないからこそ、予防をしておいたほうがよい。

特に紫外線の強い時期に外出するときは、サングラスをかけたほうがよい。


あと、単純に眩しさを軽減する。

自転車を走らせてわかるのは、光が目に入ると視界が断絶して、一瞬思考が停止する。

これは事故のもとだ。

当然、事前に回避できるリスクは、回避するためにできうる限り努力をするべきであり、そのために自転車などの凶器になりうる乗り物に乗るときはサングラスを着用することが必要であろう。

全体的に暗くなるということが逆にリスクとなることもあるが、トンネルにでも入らない限り、視界が遮られることはなく、比較論からいっても、眩しさを回避することに重きをおくべきである。


また、当然であるが、目に埃が入ってくることを防ぐという役割も担う。

ウィルスなどが飛散している可能性は低いであろうが、埃などが目に入ることにより目が腫れてしまうこともないとは言えず、これもサングラスをかけて損はないと言えるであろう。


欧米人は当たり前のようにかけているが、日本では、どうも不良のイメージが強いのか、あまりかけない。

これは日本人の固定観念なのではないだろうか?

確かに、サングラスのもうひとつの意義として、ファッションという要素がある。

どちらかというと、サングラスをかける理由はこちらが一般的なのかもしれない。

そのファッションも、任侠映画などに代表される、「怖い」「不良」というイメージが強い。

なので、特にオフィシャルな場、例えば職場などでは、絶対にサングラスをかけよういう発想にはならない。

しかし、このような固定観念は正解ではないのかもしれない。

機能的に必要であれば、もっと堂々と使用してもよいのではないかと思う。

過度にファッション性の高いサングラスはもちろんNGであるが、上品なものであれば、外回りが多いような職場に持ち込まれてもよいのではないか。


サングラスのほかにもあると思うが、過去の道徳観に引きずられて、実をとれないようなものは、固定観念を打破して、実を取るようにシフトしていくべきだ。

自分でよいと判断をできるものは、周囲に不快な思いをさせないことを前提に、どんどん取り入れて、少しづつでもよいので「実」の理解者を増やしていきたい。

欧米の文化が全て正しいとは思わないが、見習うべきところはある。

日本人としての慎ましさは保ちつつ、変な意地は捨てて、常識を見直してみると、案外、日本独自の思考が醸成されるかもしれない。


そのためには、例えば親が言っていることを疑ってみるのもよいかもしれない。

自分の頭で、なぜ親がそう言っているのかを深く考え、理に適っているか判断をしてみよう。

気をつけなければいけないのは、このときの物差しを自己都合にしないことだ。

自らのエゴとは別に、将来のためになりうるかを判断してみよう。

常識の線でも、親が言っていることが正しいとは限らない。

ただ、そうは言っても親が主張するからには、何かしらの理由があるはずだ。

そこはくみ取ってあげよう。

そのうえで、自らの思いを突き通すのは決して悪いことだとは思えない。

さあ、自らの価値基準を磨こうではないか。


本日のパパからのメッセージは、

「親の思うように動かなくてもよい!ただし、親の思いがどこにあったかはくみ取ってみよう!」

です。


そして、パパの「今日のよかった!」は、

「忘れかけていたころに(勝間和代氏の)セミナーに当選した!」

です。

Why?

→モチベーションはもちろん、思考の訓練ができるから。