その336 余計な修飾は除して、シンプルに語ろう!
自転車に乗っていて「面白い」と思ったことの一つにハンドサインがある。
前方に障害物があるとき、前を走っている自分がスピードを落とすときなど、いくつかのサインがあるが、手話のように明確なルールがあるわけではなく、感覚的に伝えるコミュニケーションだ。
http://www.cyclestyle.net/special200807d/vol4_2.html
仲間と走っているときはもちろん、見ず知らずの人との間でやりとりするシチュエーションが、乾いた現代生活の中で、一瞬潤いを与えてくれる。
今朝もいつもの河川敷のコースの手前、おそろいのジャージとレーパンに身を包んだ、いかにも速そうなライダーと一緒になった。
スピードが遅くて迷惑をかけるのが嫌なので、こういうときは、もちろん前に行ってもらう。
予想どおり速い。
追い風とはいえ、アベレージ35〜36キロで疾走する。
パパもちょっとがんばって、10メートル後方で引っ張ってもらいながら走る。
目標があると、このスピードもそれほど苦にならない。
そして感心をしたのは、この人が、10メートル後方を走っているパパのことを意識して、とても細かくハンドサインをくれたことである。
ジョギングを楽しむ人をよけるとき、下にゴミが落ちているとき、見ず知らずの通りすがりのライダーに対しての気遣いに恐れ入る。
5〜6分くらい走ったところで、そのライダーが河川敷のコースから外れてしまったので、それほど長く並走したわけではないが、朝から気分がよくなった。
どんな御仁であるかは知る由もないが、自分もあんな気持ちのよい走り方ができるようになりたい。
ところで、この自転車におけるハンドサインは、危険を後方を走る者に知らせることを目的とした伝達方法であり、言葉を介さない(もちろん極めて危険なときは声を出してこともある)ので、きっと万国共通に使える。
パパは、自転車仲間から最低限のハンドサインについて教えてもらったが、きっと教えてもらわずとも意図が通じるのであろう。
時代を超えて、昔(自転車の有史以来)のライダー、未来のライダーにも通ずるコミュニケーションであろう。
このような原始的なコミュニケーションは、誰に教わるでもなく理解できるのはなぜか?
DNAに刻まれているわけではないだろうから、人間が営む生活の中で積んできた経験から判断をして、瞬時に理解するのであろう。
自転車に限らず、このような原始コミュニケーションは、日常のあらゆる場面に存在して、人と人とをつなげているのであろう。
特別な知識を必用としないから、これらのコニュニケーション手段を活用すると、相互に余計なストレスを感じず、円滑な関係が醸成されるのかもしれない。
言語のような、知識を前提としたコミュニケーションツールは、極論を言うと、誤解に満ちている。
シュチエーションやその人の身の置き場によって、解釈が異なり、つまらぬギャップが生じる。
もちろん、現代社会は言語なしではコミュニケーションできないので、それを使うことを否定することなどありえないが、原始コミュニケーションに照らし合わせると、できる限り単純化したほうがよい。
多弁は誤解のもとなので、飾り気を排除して、単純に要件だけをつなぐようなことを心がけたい。
いくら美辞麗句を並べ立てても、本質がそれらの飾り言葉の中に埋もれてしまっては、まるで意味がない。
シンプルな言葉で語ることを心がけたい。
本日のパパからのメッセージは、
「余計な修飾は除して、シンプルに語ろう!」
です。
そして、パパの「今日のよかった!」は、
「ハンドサインを使うことにした!」
です。
Why?
→見ず知らずの相手(ライダー)に気持ちよくなってもらえるかもしれないから。