その358 何事に対しても謙虚な気持ちを忘れないこと!
久しぶりに自転車で通勤をした。
緩んだ風のせいもあるのだろうが、明らかに気持ちがよい。
一昨日の自転車忘年会に参加して自転車に乗りたい気持ちが抑えられなくなった。
怪我をしてちょうど2週間ぶり。
月曜日にレントゲンを撮ってもらったところ、無理をしなければ三角巾を外してよいと言われた。
(実は、その前の土曜日に20キロ走ったとはとても言えなかったが・・)
それでも、今日まで自転車に乗るのはちょと躊躇ってきた。
あの深夜の衝撃は、時間がたつにつれ、恐怖となってのしかかってくる。
ヘルメットをつけていなかったら、確実にもっとひどいことになっていたであろう。
アスファルトに叩きつけられるとはこういうものなのか。
これまで、幸いに大きな怪我をしたことがなく、怪我というものが何かをわかっていなかった。
どこかで、怪我をして箔をつけたいなどと誤った考えをしていたのかもしれない。
怪我をしても孤独から解放などされないことはわかっているのにである。
今思うと、あの時は、自暴自棄というか、少しどうでもいいやという感情があったのだと思う。
なぜ突如として、そのような感情になったのかは、あまりはっきりしない。
しかし、あの状態で真っ暗な道を時速30キロで走るのは、客観的に見ると尋常ではない。
履き換えたばかりのタイヤが滑るように路面を捉えていたので、どこか違う世界へ誘ってくれるような気はしたのかもしれない。
一体どこへ向かおうというのだ。
自転車は、物理的にだけではなく、精神的にも世界(観)を拡げてくれる作用があるのだろうか。
しかし、1年前には、自分がロードレーサーに乗っている姿など想像できなかった。
そして、こんな歳になって、新しいことにチャレンジして、ここまで楽しめるとは思わなかった。
峠の話で、なぜそこまで盛り上がれるのか。
どこそこの坂道は幅が広くてよいとか、海抜0メートルから2000メートルまで行こうとか。
パパたちの自転車チームでは、坂道を走ることが好きなクライマーのことを「変態」と呼んでいる。
自転車乗りは、程度のこそあれ、この「変態」の要素を持っている。
自らの肉体を酷使し、降りても誰にも文句を言われないのに、決してバイクから降りようとしない。
偉そうなことを言えるほどツーリングの経験をしているわけではないが、自分のレベルで限界まで頑張れるところがよい。
仲間と走っていると、力量は違っても、仲間がエイドステーションで待っていると思うと、それが励みになる。
カラリとした関係。
大人同士の付き合いはこれだ。
うまく言えないが、尊敬の念を持ちながらも、適度な距離感を大事にしたい。
パパは筋肉の力で漕いでいるので、もっと回転を意識したほうがよいと言われた。
さりげなく、きちんと他人の様子を見ていて、アドバイスをしてくれるのがよい。
それも、やたらめったらと押し付けるのではなく、ここぞというところで言ってくれるので重みがある。
しかも、次から次へと、みんなで、技術的、メカニック的なアドバイスを同じように絶妙なタイミングでしてくれる。
で、思った。
これは、話し手の技術もあるが、聞き手であるパパにも何かがある。
そう。パパは自転車に関して、走ることに対してはそこそこ自信があるが、マシン、技術などの知識が乏しく、今もチームの中で最も素人であるということを自負している。
そうなのだ。素人であるパパはすべてを受け入れるモードになっているのである。
これだ!
まずは、自分自身が謙虚になること。
そうすることにより、全てを素直に受け入れることができ、周囲を気持ちよくさせることができるのだ。
世の中、自分の知らないことばかりであり、他人は自分と違う感覚で生きている。
知識であり、感情であり、自分との相違点を素直に受け入れてみると、実に勉強になり、刺激を受ける。
この新しいことに、素直に感謝をする気持ちになろうではないか。
小さな自分を素直にさらけ出し、いろいろなものを吸収していく気持ちを忘れなければ、「どうでもいいやという感情」など現れる余地がないはずだ。
気持ちの持ち方一つで、カラリとした人生を歩めるような気がする。
本日のパパからのメッセージは、
「何事に対しても謙虚な気持ちを忘れないこと!」
です。
そして、パパの「今日のよかった!」は、
「自転車で通勤できた!」
です。
Why?
→ 健康な体が一番であることを実感できたから。