その366 相手との違和感から逃避しない!
語り合うことを避けてはならない。
人は相手の話が面倒だと思ったときに、わかったふりをして、あるいは話題をそらして、話を遮ってしまいがちだ。
他人同士なので共感できない部分があるのは当然である。
ただ、その相違点について違和感を感じたからといって、そこで止めてしまったら、その溝は埋まりようがない。
発せられた言葉から判断できることなんて限られているのだから、相手の発した言葉をもっと深く考えてみなければならない。
このとき注意をしなければいけないのは、相手を受け入れるという気持ちである。
なぜなら、「非共感」は部分的でしかなく、全体は「共感」しているのだから。
これを履き違えてしまうことが多い。
相手のよい点が多く存在していることを理解していながら、ほんのわずかばかりのズレにより否定的になってしまうのはあまりにも勿体ない。
前提として相手のことを肯定的に捉えていることを方時も忘れてはならない。
そのことさえしっかりと持っていれば、断片的に現れる非共感感覚は、感情的な問題から論理的な問題に置き換えることが可能となる。
なぜ、自分が違和感を感じるのか、探究してみたくなる。
その違和感の正体は何なのか。
相手とのズレを分解してみることだ。
分解するためには相手から説明を聞き、断片毎に自らがそのことに対してどのように考えているかを整理してみる。
そして、その整理した結果を相手に伝える。
相手に伝えるということは、考えをまとめ直すので、そこで新しい発見が生まれる。
全てとは言えないが、違和感の正体なんて、小さな断片でしかないことが多い。
「can't see the forest for the trees」(木を見て森を見ず)。
視野を拡げてみれば、相手のことを許せないなどという感情は抑えられるはずだ。
そして、気がつけば、マイナスの感情が作用していたはずの違和感の正体から何か新しいものを学びとっているのである。
他人同士は所詮他人同士である。
いくら気が合うといっても、完全一致することなどない。
不一致の部分があるからこそ面白い。
語り合うことによって、その不一致の溝が徐々に埋まっていく。
埋まるということは成長しているのである。
冒頭に記した「語り合うことを避けてはならない」は、=「違和感から目を避けてはならない」である。
自らの成長を放棄するのは勿体ない。
さあ、語り合おうではないか。
本日のパパからのメッセージは、
「相手との違和感から逃避しない!」
です。
そして、パパの「今日のよかった!」は、
「PCが動かなくてよかった!」
です。
Why?
→ 状況によってできることが何であるかを判断できたから。