その367 どんなことだって意識の持ち方ひとつでルールは守れる!
意識の持ち方一つで自らの行動は抑止できる。
昨日、ラグビーの大学選手権をテレビ観戦した。
印象に残ったのは、第2試合の帝京大学と明治大学のレフリーのゲームコントロールだ。
ただルールに則ってホイッスルを鳴らすのでなく、なぜホイッスルを鳴らしたのかを明確に説明していた。
そして、事あるごとにゲームキャプテンに対して、ルールを守るように説明する。
実に威厳があった。
論理を伴うとやかり説得力は増すものである。
相手との接触を伴うスポーツ、例えば、サッカーなどもそうであるが、どこからがルールに違反しているのかが明確ではなく、レフリーの主観に委ねられる部分がある。
プレーを見ている位置によって、死角があって反則を見落としてしまったり、正常のプレーもファウルに見えてしまったりと、曖昧さが寛容に作用することが前提となる。
したがって、ときに選手は自らがルールを犯していないことがわかるため、その裁定に不満を持つこともある。
しかし、ラグビーでは、そこでレフリーに文句を言うことが許されていない。
レフリーが絶対なのだ。
サッカーなどでは、不満を態度に表わし、時に暴言を吐き、不必要なペナルティを課せられるときさえある。
ラグビーという競技がサッカーと違い、熱くならないかというと、もちろんそのようなことはなく、むしろ相手とのコンタクトが強い分、より興奮するであろう。
しかし、レフリーには従う。
なぜか?
理由は単純で、それがルールであるということが、選手に浸透しているからだ。
ラグビー教室で、学校で、あるいはクラブで、ラグビーに接した時に、特にあらためて習うものではないことかもしれないが、皆、そのことは知っている。
テレビ中継でもいちいち「ラグビーというスポーツはレフリーに逆らえないのです」などと説明はしない。
しかし、クラブ等であれば先輩たちの態度から、観衆であれば選手の態度から、「ラグビーというスポーツはレフリーに逆らえないのです」ということを察する。
そしてそれが徐々に伝播する。
文面ではなく、自らの態度によって、何かを他者へ伝えられていくことはできるのである。
つまり、意識の持ち方ひとつで他者へ良い影響を与えることができるのだ。
これは使わない手はない。
人によって道徳観に差があるのは仕方がない。
しかし、それぞれの道徳観であってもよいので、それを強く意識することだ。
子どもがいればなおさらだ。
正しい態度をとるという意識さえあれば、社会のルールは守れるものだということを身をもって示したい。
子どもたちの反社会的な行動を批判する前に、自分たち自身のことを見つめ直そうではないか。
ごみくずを外に捨てないとか、信号無視をしないとか、ルールとして自分で決めてしまえば、従えることなんていくらでもある。
大きな穴があいてしまう切っ掛けは、小さな綻びである。
できる範囲で構わないと思う。正しい態度を意識して行動したいものである。
本日のパパからのメッセージは、
「どんなことだって意識の持ち方ひとつでルールは守れる!」
です。
そして、パパの「今日のよかった!」は、
「知力、体力、気力が充実できた!」
です。
Why?
→ 非生産的な時間が少ない冬休みであったから。