その139 文学作品を読んで、行間を読む技術を鍛えよう!

文学的表現は、時に感情を覆い隠してしまうこともあるので、日常で使用するには注意が必要だと思います。


ブログを書き始めたこともそうですが、句会に出席をしたり、ネット上で編集術を習ったりと、自らの表現を他人に晒す機会が急速に増えました。

増えたといっても、たかだかその数は限られておりますが、昨年までは、なにせ「0」だったので、それと比較をすると、パパの中では劇的な変化です。

で、それらの中で、パパは意識的に格好をつけて文学的な表現を用いています。

これは、自分の文章や表現を他人に少しでも上手に見せたいという、自己顕示欲的なところから来ているもので、時には適切な表現が見つからないために、自らの思いとは別のことを書いていたりもします。

さらに、格好をつけた表現というのは、得てして曖昧・抽象的になりがちで、その分、書き手の意図を抑え、ある意味で読み手に解釈を丸投げしています。

つまり、書き手であるパパは、どこかで自分の気持ちを素直に出すことに抵抗があり、それがためにストレートではない表現になってしまい、結果、読み手の解釈の自由度をあげ、褒められるときはパパのおかげ、けなされる時は読み手の解釈のせい、というように他者巻き込みがたの評価システムを採用しています。

自分が勝手にそのように思う分には勝手ですが、表現が曖昧であるが故に、誤解を受けることすらあります。


誤解とは恐ろしいものです。

昨今の、ブログ炎上なども、書いた当人は、サービスのつもりで良かれと思い、書いてしまったのではないでしょうか?

特にストレートな表現で他人を批判するような文書は当然非難されてしかるべきですが、中には曖昧な表現が他人の解釈により一人歩きして、結果、批判に晒されるというパターンも多いように思われます。

絶賛と非難は紙一重なのかもしれません。


「一つの言葉」「一つの文章」から様々な解釈を呼び起こすのは、ある意味、人間的であり、読み手側の解釈に評価を委ねることになるので、「諸刃の刃」に成りかねません。

良い解釈をされることもあるし、悪い解釈をされてしまうということもあります。

で、あれば、ストレートな表現を心がけ、悔いのないようにしやほうがましかもしれません。


ただ、それでもなお「曖昧な言葉」から真意を読み取ることができるのは、人間の立派な技術なので、価値があるように思えます。

なぜなら、コンピュータがいくら発達してもできないことだからです。

だからこそ、この分野における優位性が、この先の遠くない未来で求められる技術なのかもしれません。

これは、ビジネス文書を読んでもなかなか身につくものではなく、小さいときから文学作品などに親しみ、地道に鍛えていくしかない分野だと思います。

勝間和代さんなどもよく仰っていますが、これからの未来は、コンピュータができる分野はどんどんコンピュータに任されるようになり、人間はコンピュータができない分野でのみ重宝されるようになるとのことです。

コミュニケーションとは、少し違う、行間を読む技術は、身につけておいて損はないと思います。


本日のパパからのメッセージは、

「文学作品を読んで、行間を読む技術を鍛えよう!」

です。


パパが離れて暮らしているため、君たちに、このメッセージの内容を実践するのは、必然的にママの役割となります。

でも、これならパパが君たちにできることがあります。

それは、絵本や本を贈ることです。

本を通して、離れ離れの親子の心が交流することができれば、本好きのパパとしては、少しだけですが面目躍如です。