その359 断片から世界を拡げよ!
文字だけを見てもわかりようもないことであるが、それが異国から発信されたメールだと、自分がその場に居るわけでもないのに、なんだかワクワクしてくる。
見たことのない場所だからこそ、その風景を自分の理想に近い形で想像できる楽しみがある。
少しセピア色のかかった映像が視覚とは別のところにぼんやりと浮かぶ。
気がつけば、濃厚な甘い香りが漂い、闇夜を切り裂くようにバザールの音が聞こえる。
ゆっくりとアジアの風景が体に溶け込んでいく。
同じ記号であっても、その記号ができた背景をすり替えるだけで、物事を捉える幅、そこから感受的な大きさが異なってくる。
事実だけを直視すれば、それは一見効率的なのかもしれないが、大事なものを見落としてしまうような気がする。
我々が五感で体感できる事実は、物語の断片でしかない。
断片から、その奥底に潜む無限の世界を確認してみると、何に接しても飽きないような気がする。
事実から物語化することこそが知へのあくなき追求の入口なのかもしれない。
まずは関心を持つこと。
そして、関心をもったものの表面的なところで納得するのではなく、深層部分を探求する姿勢でありたい。
どこまで広げていくかは自分しだいであって、つまらなければ戻ってくればよい。
そして広さを持つためには、少し自分で努力をすること。
そのためには知識が必要だ。
感性は入り口で重要な役割を果たすが、限界があるように思える。
次へと展開していくための要素として、情報が重要な役割を果たす。
情報は質が命。
どこで情報を入手するかが案外と重要である。
ネット検索もよいが、できれば本を読んで、知識を吸収する一助としたい。
そのために最近使っているツールがこれ。(先の発言と矛盾してネット検索ツールですが・・)
編集学校の校長でもある、松岡正剛氏の千夜千冊のマップである。
キーワードを入れると、関連する本が何冊か現れる。
さらにアマゾンに行くと、その本を買った人が別にどのような本を買っているかが出てくるので、すべての本を読まずとも、その系譜がわかるだけでも楽しい。
余談であるが、ファッションの世界で季節商品を増産するのに、使う指標は、単純に発売○日の売り上げ順ではなく、過去の買い物履歴から分析をして、売れる商品を買った人の動向を見ているとのことだ。
良質な履歴は、ビジネスの世界で使われることが常識になっている。
では、これを個人で使ってみようではないか。
千夜千冊という知的好奇心の高い人に人気のあるコンテンツから、アマゾンに飛んで、そこでその知的好奇心の高い人の読み物を探る。
かなりの確率で興味を惹かれる本があるはずだ。
著者の方には申し訳ないが、古本を購入してもよいかもしれない。
近年の本の世界は回転が早いらしく、気がつくとすぐに絶版になっている。
本については迷ったら買っておいたほうがよい。
そう、本を媒介して、断片から世界を拡げようではないか。
先行きが不安な時代だからこそ、直線的なだけでは世の中の支持を得られないのかもしれない。
人に物語の全体像を見せないと価値が半減してしまうのだ。
千夜千冊マップもアマゾンの履歴も、断片からだけではなく、その断片からの広がりを持たせているからこそ、受けているのであろう。
ビジネスでも個人の生活においても、物語を発信できるように精進していきたいものだ。
本日のパパからのメッセージは、
「断片から世界を拡げよ!」
です。
そして、パパの「今日のよかった!」は、
「早起きして稽古ができた!」
です。
Why?
→ 時間を意識して集中力を高めることができたから。
その358 何事に対しても謙虚な気持ちを忘れないこと!
久しぶりに自転車で通勤をした。
緩んだ風のせいもあるのだろうが、明らかに気持ちがよい。
一昨日の自転車忘年会に参加して自転車に乗りたい気持ちが抑えられなくなった。
怪我をしてちょうど2週間ぶり。
月曜日にレントゲンを撮ってもらったところ、無理をしなければ三角巾を外してよいと言われた。
(実は、その前の土曜日に20キロ走ったとはとても言えなかったが・・)
それでも、今日まで自転車に乗るのはちょと躊躇ってきた。
あの深夜の衝撃は、時間がたつにつれ、恐怖となってのしかかってくる。
ヘルメットをつけていなかったら、確実にもっとひどいことになっていたであろう。
アスファルトに叩きつけられるとはこういうものなのか。
これまで、幸いに大きな怪我をしたことがなく、怪我というものが何かをわかっていなかった。
どこかで、怪我をして箔をつけたいなどと誤った考えをしていたのかもしれない。
怪我をしても孤独から解放などされないことはわかっているのにである。
今思うと、あの時は、自暴自棄というか、少しどうでもいいやという感情があったのだと思う。
なぜ突如として、そのような感情になったのかは、あまりはっきりしない。
しかし、あの状態で真っ暗な道を時速30キロで走るのは、客観的に見ると尋常ではない。
履き換えたばかりのタイヤが滑るように路面を捉えていたので、どこか違う世界へ誘ってくれるような気はしたのかもしれない。
一体どこへ向かおうというのだ。
自転車は、物理的にだけではなく、精神的にも世界(観)を拡げてくれる作用があるのだろうか。
しかし、1年前には、自分がロードレーサーに乗っている姿など想像できなかった。
そして、こんな歳になって、新しいことにチャレンジして、ここまで楽しめるとは思わなかった。
峠の話で、なぜそこまで盛り上がれるのか。
どこそこの坂道は幅が広くてよいとか、海抜0メートルから2000メートルまで行こうとか。
パパたちの自転車チームでは、坂道を走ることが好きなクライマーのことを「変態」と呼んでいる。
自転車乗りは、程度のこそあれ、この「変態」の要素を持っている。
自らの肉体を酷使し、降りても誰にも文句を言われないのに、決してバイクから降りようとしない。
偉そうなことを言えるほどツーリングの経験をしているわけではないが、自分のレベルで限界まで頑張れるところがよい。
仲間と走っていると、力量は違っても、仲間がエイドステーションで待っていると思うと、それが励みになる。
カラリとした関係。
大人同士の付き合いはこれだ。
うまく言えないが、尊敬の念を持ちながらも、適度な距離感を大事にしたい。
パパは筋肉の力で漕いでいるので、もっと回転を意識したほうがよいと言われた。
さりげなく、きちんと他人の様子を見ていて、アドバイスをしてくれるのがよい。
それも、やたらめったらと押し付けるのではなく、ここぞというところで言ってくれるので重みがある。
しかも、次から次へと、みんなで、技術的、メカニック的なアドバイスを同じように絶妙なタイミングでしてくれる。
で、思った。
これは、話し手の技術もあるが、聞き手であるパパにも何かがある。
そう。パパは自転車に関して、走ることに対してはそこそこ自信があるが、マシン、技術などの知識が乏しく、今もチームの中で最も素人であるということを自負している。
そうなのだ。素人であるパパはすべてを受け入れるモードになっているのである。
これだ!
まずは、自分自身が謙虚になること。
そうすることにより、全てを素直に受け入れることができ、周囲を気持ちよくさせることができるのだ。
世の中、自分の知らないことばかりであり、他人は自分と違う感覚で生きている。
知識であり、感情であり、自分との相違点を素直に受け入れてみると、実に勉強になり、刺激を受ける。
この新しいことに、素直に感謝をする気持ちになろうではないか。
小さな自分を素直にさらけ出し、いろいろなものを吸収していく気持ちを忘れなければ、「どうでもいいやという感情」など現れる余地がないはずだ。
気持ちの持ち方一つで、カラリとした人生を歩めるような気がする。
本日のパパからのメッセージは、
「何事に対しても謙虚な気持ちを忘れないこと!」
です。
そして、パパの「今日のよかった!」は、
「自転車で通勤できた!」
です。
Why?
→ 健康な体が一番であることを実感できたから。
その357 思考の結果はアウトプットしよう!
家に着いたのがAM1時30分だった。
よく電車が動いてくれたものだ。
練馬区の某所を出たのが23時40分ごろ。
副都心線に乗り換えて帰ってくるつもりが、最終に間に合わず、仕方なく池袋から山手線経由で帰ることに。
それでも乗換案内などでは、AM1時に到着する予定になっていた。
しかし、池袋で山手線が来ない。
こんな時間帯なのに、まさかの遅延発生。
忘年会のピークなのか、新宿駅が混雑して、ダイヤが乱れているとのこと。
もう、一巻の終わりかと思ったところ、接続する各線はしっかりと待っていてくれる。
結局、家まで向かう電車は20分以上遅れてターミナル駅を出発した。
もう、この電車は凄かった。
いつもより遅くまで運行しているということは、それだけ、人が大勢乗ってくるということである。
帰宅難民を救うための手段であり、パパ自身も確かに助かったのではあるが、少しでも早く帰りたい人にとってはいい迷惑だ。
素朴に思うのは、接続を意識することなく、とりあえずは時間どおりに出発をして、その後に接続に合わせて臨時列車を増発するというわけにはいかないだろうか?
ダイヤは複雑であると聞くが、最後に追加されるだけなので、どうにでもなりそうなものである。
もちろん、鉄道会社にとっては、1本増発したところで利用者がそれほど増えるわけではないので、損得を考えた場合には、確かに増発するという選択肢はとらないであろう。
しかし、このようなことは1年のうちに何回も発生しているわけで、そうであれば予め臨時列車の増発分の費用を予算に組み込んでおけばよいのではないか。
とにかく、目線を乗客に向けて欲しい。
公共的なものなので、皆を満足させるわけにはいかないとは思う。
現状のサービス(接続する列車が到着するまで待つ)も多くの人にメリットを享受しており、クレームが出にくいところではあるが、それでもなお現状に満足せずにサービスの改善に努めて欲しい。
駅に務めている人だってわかっているはずだ。
尋常でない状態はあらたなトラブルの温床にさえなりうる。
保守的な考え方が全てNGというわけではない。
一人一人が、なかば常識化されている事実を疑い、思考をするクセをつけないと、社会全体が沈滞化してしまう。
全てのことに対して、正しいことを言い続けることなんてあり得ない。
例え正しいことを言ったとしても、その声が届き、反映されるなどということは、ほとんどないのであろう。
それでも、それが自分の家庭であったり、職場であったりという限定的なコミュニティであれば、反映されることもあるであろう。
その時に、よかったと思えることが大事である。
自分が思考した結果、何かが動くことを体感して欲しい。
それは、最初は小さなコミュニティの中でしか起こらないかもしれない。
しかし、その成功体験が積み重なれば、次はもう少し大きなコミュニティで自分の思考した結果が反映されているかもしれない。
そうやって、思考と実績が繋がって、何かが変わっていくことを経験として持つと、発信力が高まるのだと思う。
そう。思考した結果は、どこかで吐き出そう。
どこに吐き出せばよいかというのも、経験を積めば会得できるのであろう。
どこに吐き出せばよいかわからなければ、たったひとり、他人に話しをするだけでもよい。
自分の内に留めるのではなく、とにかく外を意識すること。
出力を意識することにより思考の精度があがるものだ。
本日のパパからのメッセージは、
「思考の結果はアウトプットしよう!」
です。
そして、パパの「今日のよかった!」は、
「2日酔いがなかった!」
です。
Why?
→ 順調とは言えないまでも、少し稽古が進んだから。
相当量のお酒を飲んだはずなのに、全く大丈夫だった。
「ウコンの力」が効いたというより、楽しく会話をしながら自分のペースで飲めたからだろう。
自転車野郎達との一時は楽しいなー。
その356 撤退ルールをあらかじめ設定しておこう!
『あなたも「お金」に愛される!』刊行記念、勝間和代氏と『日経マネー』鈴木亮編集長 トークセッションへ参加してきました。
勝間さんの資産運用系の講演は3回目。
ドル・コスト平均法を使った、日本×世界×株×債権の分散投資が基本であるという話はブレていない。
最も楽な方法は、インデックス型の投資信託を毎月自動的に買いますこと。
このとき手数料も馬鹿にできないので、なるべく安いものを選ぶことがポイントだそうだ。
昨年のリーマンショックのような異常事態がなければ、下ぶれは10%にとどまることが想定されるので、その範囲の中であれば一喜一憂せずに、とにかく継続することを推奨されていた。
このとき重要なのは、損切ルールを設定し、「そのルールを実行する」こと。
案外多いのは、損切ルールは設定するものの、それを実行しないということである。
(パパもルールは作るものの実行できない口だ)
「自分だけを特別視」してしまうのは、行動経済学上においても証明されている行為だそうだ。
これらの話を聞いて、自分を特別視してしまう行動は、投資活動だけではないと思った。
人間は、本能的に間違っている状態を認めたくないものなのだ。
なので、根拠もなく、都合よく自信過剰になってしまう。
しかしこれはあまりも危険だ。
このことを回避するためには、損切ルールのような撤退ルールをあらかじめ設定しておくことが必要である。
自分が特別なんてことはありえないと心得、素直に「負」「否」を認め、次のステージへ移行するほうが得策である。
日々の変化の中で、撤退ルールの基準値自体が変動することは、ある程度は致し方ないようにも思う。
しかし、これは例外として、よっぽどの環境の変化がない限り、当初の目標を遵守すべきである。
言い訳を並べ立てて、原案に固執して現状を無理やり肯定するよりも、一度、俯瞰的に自らを見つめ直すのだ。
俯瞰的な見方をすると、これまでの経緯は事実でしかなく、現時点における状況からのスタートになるので、過去の選択肢に縛られることはない。
これを意識したい。
で、この境地に否が応なく達するために、撤退ルールがあるとよい。
状況の都度、進退を悩むのはエネルギーを消費する割には、成果と結びつきにくい。
そうであれば、悩みを機械的に判断するために、あらかじめ撤退の基準値を明確にしておくことが合理的なのである。
そして、その基準値は、心の中に仕舞い込むのではなく、手帳に書くなどして、常に意識できることが肝要だ。
負の感情を素直に認めることができる人は、結局、切替が早く、次のチャンスを掴む確立が高いものでる。
では、どうしたらその負の感情を受け入れることができるかというと、負のボリューム感を許容範囲にとどめるしかないと思う。
慎重な人生がつまらないなんてことはない。
あくまでも事前に設定したルールに基づき、損失を最小限に抑えることで、リスクを回避したいものだ。
本日のパパからのメッセージは、
「撤退ルールをあらかじめ設定しておこう!」
です。
そして、「パパの今日のよかった!」は、
「自転車仲間との交流を温めることができた!」
です。
Why?
→ 利害関係のない楽しい仲間だから。
その355 過去に引きずられることなく、その時点で最良の方向へ一歩踏み出そう!
民主党の政策が迷走している。
http://www.asahi.com/politics/update/1221/TKY200912210357.html
いかにマニフェストと言えども、誤っていると思ったら柔軟に方針転換をすることは、悪いことでないと思う。
選挙の公約違反と批判をされるのを覚悟で、政策を見直すのは、ある意味勇気がある決断で称賛に値する。
世の中、一度言ったことに対して方針転換ができずに、より悪い方向へ向かって行ってしまうことがままある。
過去に引きずられることなく、その時、その時で最良の方向へ向かうべきだ。
その意味では、今回の暫定税率の維持は、一般的には批判を浴びるであろうが、個人的には評価する。
前回の衆議院選挙における民主党のマニフェストは、はじめから大風呂敷であると皆うすうす感づいていたわけで、それを現実的なところに押し戻すのは、よいことである。
もちろん、この代償は大きい。
鳩山首相のリーダーシップのなさも目立ち始めてきており、世論調査にもあるように、急速に支持が離れていくであろう。
ただし、野党自民党も批判するだけで何ら新鮮味がなく、次回参議院選では、みんなの党などを中心とした新たな勢力が、新しもの好きの国民の支持をそこそこ集めそうな気がする。
個人的には、民主党が衆議院に続き、参議院でも過半数を確保してしまうと、沖縄の基地問題など抑制がきかなくなり、それこそ独裁政治になってしまう懸念があり心配だ。
ただ、これから気をつけるべきは、今回のような個別事案に振り回されないことである。
将来にわたっての財源確保、人口減少への歯止めの対策など、木ではなく森を見なければならない。
そういう意味では、個別事案として処理してしまいそうな、所得制限なしでの子ども手当についてはいかがなものかと思う。
年収のどこを境にするかは、問題であるが、一律の額としなければ、いくらでも策はあったはずである。
だいたい、子ども手当を支給したところで、子供が増えるというような単純な話ではないと思う。
なぜ、子供が増えないのか?
それは、現在の家族の在り方にあるのだと思う。
親子の関係をすばらしいものにできれば、自分もそうなりたいと望むはずだ。
その意識付けが不足しているように思える。
巷には、子供のころから個人で愉しめるモノが溢れている。
なので、親自身が個人の愉しみに走ってしまい、それを見て育った子らもまた、個人の欲望を満たすことに走る。
経済的に苦しいから子供を作らないという理屈は言い訳にすぎず、子供を育てて自分の時間を取られるのが嫌な人が多いのではないかと思う。
もちろん相対的な話であって、望んでも子供ができない夫婦もたくさんおり、一元的に決めつけてしまうわけにはいかないが、なんというか、子供のころから親子のスキンシップをはかるような環境整備、教育を行わなければならないと思う。
お金をばらまいたところで、それがあるから、もう一人というわけにはいかないであろう。
その金を使って保育園に入りたくても、皆が同じ条件で手当てを支給されていれば、待機児童の数は減るよしもない。
この政策こそ、選挙用のものであり、富裕層を含めて一律支給することにメリットを見出せない。
親の収入によって子供を差別するようで支給に所得制限を設けるのはいかがなものかという意見が世間では大勢を占めていたようであるが、いかがなものか?
国の財政が黒字であれば、それもよいであろう。
しかし、現実には借金をして子ども手当を支給しているのである。
つまり、その借金を返すのは子供たちなのだ。
誰が好き好んで、生活に余裕がある人のために借金をするのであろう?
自分で生活を切りつめられる人は、自力で生きるべきだ。
その代わり、自分が困ったときに助けてくれるようなことを望むべきだ。
弱者救済だけでは選挙に勝てないのかもしれない。
高額納税者の所得税をアップさせなかったり、消費税を導入しなかったりするのも、選挙のためであることは明白だ。
本当に日本の未来のことを考えるのであれば、余裕があるうちに、余裕があるところから、税を徴収すべきである。
政党なんてみな偽善者である。
ただ、どこかでその仮面を外し、視線を少し遠くに向けないと、とんでもないことになってしまう。
苦しいふりをしている人に騙されぬよう、将来を見据えた政策論議をしてもらいたいものだ。
本日のパパからのメッセージは、
「過去に引きずられることなく、その時点で最良の方向へ一歩踏み出そう!」
です。
そして、パパの「今日のよかった!」は、
「医者で三角巾を外してよいと言われた!」
です。
Why?
→ 自由の感覚を味わえたから
その354 行動を起こせ!そしてその結果を他人へ伝えよう!
本格的?なスカイプ会議をやってみた。
今日の参加者は5人。
朝の7時から8時までの1時間、テーマは「マインド・マップの広め方」。
ファシリテータ役を仰せつかっており、事前にアンケートなどを配布して、それなりに準備をしたつもりであったが、結局、目新しい結論は出ず、スカイプ会議を実践したという実績だけが残った。
スカイプ会議の難しさは、どのタイミングで話に入っていくのかが難しいところだと思う。
皆、ついつい傾聴してしまう。
そういう意味では、ファシリテータとして、いろいろと意見を求めるような振りをしてもよかったのかもしれない。
チャットができたり、DropBoxという外部ストレージがあるので、ホワイトボード替わりに使えるかなと思ったりもしていたが、なかなか、手書きのスピード感、臨場感には敵わない。
探せばあるのかもしれないが、手書きでさっと書けて、それをスカイプ上のメンバが確認できるようなソフトがあればよいと思った。
そして何より、ファシリテートを含めた参加者の慣れだろう。
何事も経験をしてみるものだ。
なので、内容はなくても、スカイプ会議の実績だけでもあったほうが、何もやらないよりはましだ。
ただ、そこから何かを見出さなければ、満足感という感情的なものしか残らず、次へと繋がらない。
慣れが解決するのか?
そうは思わないが、今よりももっと意味のあるものにはできるであろう。
バーチャルな世界を違和感と感じるのは致し方ないが、まずは、それを当たり前のように感じることが大切だ。
恐らく、世界的な企業では、遠隔会議が頻繁に行われており、まるで、その場に居るように、物事が進むのだろう。
この経験の差が、ますます、企業間の実力差を拡げてしまう懸念がある。
技術についていかないと、気がつくと、おいてけぼりになってしまうという不安にかられる。
これは、個人レベルでも、企業レベルでも、そして国レベルでもある。
新しい技術がすべてではなく、基本は、表面的な部分より、しっかりとした思考力であることはわかっている。
しかし、何でもGoogleで検索できる、このような時代だからこそ、リアルタイムの情報連携が重要になる。
リアルな情報を地域限定ではなく、ボーダーレスに展開できたらどれだけ凄いであろうか。
技術は進化しているので、今のスカイプ的な技術も、もっともっと発展していくであろう。
パブリックな場では、なかなか新しいものを取り入れることができないので、まずは個人で試してみて、もそよければ、それを自分で可能な範囲で進めていくことをしたい。
本日のスカイプ会議のお題であったマインドマップもそうであるし、スカイプのようなフリーソフトもそうでるが、情報を知ったうえで取り入れないのと、情報を知らないまま取り入れないのでは、まるで意味が違うと思う。
それを導入するとどういうメリットがあるのかというイメージを持てば、たとえ違う方法であっても、そのイメージに近づくことになるものだ。
刺激を与えていくのがパパの役割の一つである。
自分の思いどおりになんてならなくてもよいと思う。
ただ、何事にも、とにかく問題意識を持って欲しいとは思う。
保守的に何も変わらない状態では、個人も企業も、そして国も先細りになってしまう。
少しでも改善する点があれば、努力を惜しまんではいけない。
そして、自分でよかったと思ったことは、積極的に他人へ伝えるべきだ。
「問題ではない」と他人は感じるかもしれない。
当然である。
それでも、10回に1回でも、問題意識を持ってもらえれば、意味があるのであると思う。
問題は誰かに頼って待っていても、何も変わらない。
自分で行動を起こしてこそ動き出すものだ。
本日のパパからのメッセージは、
「行動を起こせ!そしてその結果を他人へ伝えよう!」
です。
そして、パパの「今日のよかった!」は、
「ファシリテートの経験ができた!」
です。
Why?
→ 準備にもっと時間をかけること、持っていくべき方向を複数用意することが必要であると感じたから。
その353 準備をするための仕込みをしよう!
準備のない中で無理をするとろくなことがない。
チーム対抗6時間耐久リレーマラソン09in筑波サーキットへ参加してきた。
http://iikoto-6hours.jp/index.shtml
6時間を5人で走る目論見であったが、直前で一人が風邪でダウンしてしまい、4人での参加になった。
右肩の亜脱臼が癒えぬままのスタートであった。
準備運動替わりも、2番手として最初の1周2キロのコースを走ってみると、不安であった肩に全く痛みがなく、それはよかったのだが、いとも簡単に息があがってしまった。
天気が悪かったり、怪我をしたりで、ここ2週間ほどランのトレーニングををしていないだけで、こんなになってしまうかと思った。
とはいえ、このレースに友人を誘った言いだしっぺなので、それなりの責任を果たさなければならない。
しかも、不参加の友人の分は皆で負担しなければならない。
正直、ちょっと無理をしてしまった。
最初の2キロで調子が悪いと悟りつつ、2回目12キロ、3回目8キロと走る中で、1キロ5分程度のタイムであるにもかかわらず、調子があがらず、終いには左ひざに激痛が走った。
これは久々の痛みだ。
前回も、やはり冬の寒い日であった。
60分コースの残り10分くらいに差し掛かったところで、痛みを察知し、即ランニングを中止して、歩いて家まで帰った思い出がある。
2〜3週間放置をして、怖々とランニングを再開したが、春先までに同じようなことがもう1回あった。
今思うと、その時にきちんと医者に診てもらえばよかった。
正体の知れない不安は精神衛生上よくない。
不安が行動を制約してしまう。
したがって、不安はできるだけその正体を明らかにし、少しでも解消されるよう対応すべきである。
きちんと、医者に診断してもらおうと思う。
場合によっては、右肩に続いて、こちらも長期療養を強いられそうだ。
他のメンバの経験や調子もあまりよくなかったので、本日の約110分のランニングは致し方のないことであり、後悔はしていない。
ランニングイベントに初参加であった2人のメンバも満足してくれた。
他人の満足に比べれば、個人の怪我など大したことはないのかもしれない。
痛みは我慢すればよいし、少々不便であってもそこから何かを学べるとすれば、悲観することでもない。
たまに起こる左足の激痛の原因がわかれば、それはそれで一歩前進なのかもしれない。
そして、他人を満足させることに重きを置けば、個人的な事情は、一旦外に置くことができるものだ。
その点については、今日の経験から得た教訓である。
しかし、やはり、それでもなお、準備不足で本番を迎えてしまってはいけないと思った。
これは、準備そのものもそうであるが、準備ができなくなるリスクを回避するという行動への意識付けという形で明確になった。
準備がない中で行動を起こさなければならない局面は必ずある。
結果的にそのようになってしまったら、致し方がない。
しかし、「準備がない」という状態を回避するための行動はできるはずだ。
準備をする環境を整えること、つまり、準備の仕込みこそ、日ごろから意識をしなければならないことなのである。
本日のパパからのメッセージは、
「準備をするための仕込みをしよう!」
です。
そして、パパの「今日のよかった!」は、
「他人に満足感を与えることができた!」
です。